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「教養」の共同体? 
(2006-03-22)
たとへば、教職課程をとる人は英語の勉強を兼ねて読んでみても絶対に損はない。本書を読むのにどの程度の「カルチュラル・リテラシー」が要求されるかといふと、"There is a tide" といふ "Julius Caesar" の引用がピンとこなくても "Shakespeare" がわかるのなら、辞書の助けを借りてなんとか読めるはずである。本書のシンプルでかつ強力な論旨のおほよそが理解できたとして、自分の英語の読書力もまんざらではないなどと思ひながら巻末にあるアメリカ人の基本知識のリストをみると、そのほとんどがわからなくてがっかりする、といふ楽しみもある。
アメリカといふ国はいろいろな点でずいぶんでたらめなのに、むしろそれゆゑに何でもありの、圧倒的なパワーがあるといふことはみとめざるをえない。要するに、徹底的に「プラグマティック」(実際的)であるといふことではないだらうか。教育についてもしかり。明治以来の「教養主義」の伝統をもつ日本社会のわたしたちは、邦訳のものものしいタイトル『教養が国をつくる』(中村保男訳)だけをみると、本書が「教養」それ自体の深遠な価値を主張してゐると思ひ込みかねない。しかし、さうではなかった。
著者は、ルソーとデューイを源流とする教育論を、ひとくくりに「ロマン主義」として批判してゐる。それは、著者の立場が「古典主義」だからではなく、デューイと同じく「実用主義(プラグマティズム)」だからである。本書の政治的な位置づけも、「保守主義」ではなく「自由主義」に帰着すると思はれる。
「カルチュラル・リテラシー」(一般的な基礎知識=情報を共有すること)は、あらゆるものを均質化し相対化する、「貨幣」の流通にたとへられる。「一般的知識」のある者ならだれでもが当然知ってゐると世の中で暗黙に了解されてゐる「一般的知識」が、その暗黙の了解の存在ゆゑに、公教育とくに初等教育の課程で教へられなければならないといふのは、株式投資のしくみに関する「美人投票」(ケインズ)のたとへそのままである。このことは、実質的な知識より形式的な能力の開発に重点がおかれる、すなはち「形式陶冶」を主流とする、本書が出版された1987年以前のアメリカの教育界において、まったく意識されてゐなかった。
日本では、本書の衝撃はそれほど大きくなかったらしい。アメリカ、カナダ、イギリスと、日本のとの反響の差に驚かされる。ただしそれは、当時の日本の「カルチュラル・リテラシー」の水準がアメリカなどよりもはるかに高かったからでもあらう。その後、日本でも学習指導要領のたび重なる学習内容削減などにともなって「学力低下」が問題になると、本書は『危機に立つ国家』(1983年 アメリカ教育省)とともに、あらためて注目された。本書を現行の学習指導要領と読みくらべてみるとおもしろい。