カスタマーレビュー
おすすめ度:
忘れ去ってはならない重要な一冊 
(2007-05-13)
本職では異端的だったグールド氏だが、何を隠そうバリバリの懐疑論者だったりする。そんなグールドが、疑似科学史に輝く骨相学、今をもって根深いIQ神話、そんな科学の名を騙る差別の歴史を、とんでもない労力をかけて真正面から挑んだ一冊。およそ擬似人間科学全般において本書ほど濃密な調査はないと言える。
疑似科学が差別に使われるとき、そのとき人はどれほど醜くなるか?どれほど愚かになれるか?ほんとにバカバカしいのだ。そして、そんな時代に生きていなくて良かったと、小顔の私はほっとした。(いまなら顔は小さい方が良い!なんていい時代だ!)
当時の、頭蓋の容量を測るときの方法をグールドが実際に再現してみた話などは非常に楽しい。当時の信奉者連中が、どれほど自己欺瞞に陥ったか想像するのは愉快でしょうがない・・・と当時にどんよりするが。
内容が堅いし、万人におすすめする本ではないが、似非科学史やIQ論争などに関心がある向きは、一読する価値がありまくるだろう。それにしてもこの本、、、とにかく分厚い。そして重い。まさに「鈍器のようなモノ」です。
グールドらしい徹底検証の姿勢が気持ちいい 
(2004-05-27)
人種や性別の違いによる人間の優劣評価という「測りまちがい」を検証する事で、誤りを指摘し正しい結論を導くという筆者お得意のパターンだ。
ほんの100年前まで欧米でまかり通っていた人間の優劣評価の基準が脳の容量や顔つきであるとは、あまりに稚拙で驚き呆れてしまう。しかも自分の主張にあうようにデータをねじ曲げるご都合主義。現在もなお残る知能指数IQでさえ、試験方法の試行錯誤こそ努力を感じるが、実施方法や用途のすり替えが行われていたとはまったくお粗末である。
筆者は論拠となる測定データを再評価・再試験し、偏りのない統計処理をすることで「有意差がない」という結論を導き出す。この姿勢はどの分野でも共通の学問の基本動作であり、ともすると過ちを犯してしまいがちな先入観を除くには重要だ。検証過程は執拗で、実に筆者らしいアプローチである。
後半に出てくる統計データの相関をどのように評価するかというくだりは、私には目新しい議論であり興味深かったが、ボリュームもあるうえやや専門的で、せっかくの面白さが半減したのが残念だった。
グールドのまちがい 
(2004-04-07)
この本は、科学によって差別が起こってきた歴史を個々のケースを通して詳しく見ていった本である。前半は、昔の著名な科学者がどのようにして、自分に都合よい結論を出していったかという計測上の問題、アプリオリな信念が思考過程にいかに影響を与えたかという点を中心に見ていく。これらの事例は、現在でも科学者が心にとめなくてはならない例だろう。
今から見れば滑稽な結論を支持するために、科学者が相当に無理がある論理をひねりだしたことも多く、一種の風刺としても面白く読めると思う。しかし、後半になって学問が成熟していった時期になるにつれ、グールドのメスも鋭さが衰え、反対説の人にとっては説得力がないような冗長な議論が続く。彼自身、この本の趣旨に反する最新の精密なデータが多数発表され、彼のもとに送付されているのに、自説を曲げなかったことをよく非難されていた。読み進むにつれて、この著者の偏見や差別と戦う執念みたいなものに、鳥肌がたった。膨大な量の資料を丹念に調べていった今はなき著者の様子が目に浮かぶようであった。
が、この著者は他人を批判する際には、とても鋭く明快なのだが、自分の考えを提示する段になると、何か雰囲気みたいなものだけで説明するだけだったように思える。この人もまた、あらゆるPCな考え、自他ともに認める強烈なマルクス主義、ラマルキズム好き、自然淘汰嫌い、偶然好き、遺伝嫌い、自説を革新的に見せたい願望などに強く影響されていた。生物学、行動遺伝学などの発展につれ、彼の多くの説が苦しい立場に追い込まれ(逆のもあるが)、他の進化学者から集中砲火を浴びるようになったこと、創造論者を利するようなことを多くいって(本人にその意図はなかったとしても)顰蹙を買っていったのは偶然ではないように思える。
時代を超えて生きる本です 
(2004-01-08)
生物学的な人間観は、差別や偏見がつきまとう。
人種にランク付けをしたくて、躍起になって頭蓋骨の容量を測定したり、脳の大きさを測定したり、容貌や身体的特徴の中に犯罪者の基準を探したりする科学者の姿は、滑稽というより哀れです。グールドさんは「人間とは何か」との問いかけには、直接明快な答えは書いてくれてません。しかし、人間をこのように見てはいけない、ということをはっきりと痛快に書いてくれています。この書で私グールドさんのファンになり、彼の著作を読むようになりました。
日本にも色濃くある「人を測る」思想 
(2003-04-02)
移民として米国にやってきた貧しい人々を振り分けるために知能テストが活用され「知能神話」ができていく過程と、白人を最上位に置く「人種階梯」を科学的に創り出すために行われた「仮説提示」を論じた章が印象に残っている。
読みながら、そして、この文章を書きながら、繰り返し頭に浮かんでくるのは、僕が学生だった頃に起きた北海道大学人類学教室へのアイヌの遺骨(頭蓋骨)返還運動のことだ。最近読んだテッサ・モリス・鈴木著『辺境から眺める』(みすず書房刊)、小熊英二著『単一民族神話の起源』(新曜社刊)のいずれもが、アイヌを日本人との関係でどう位置付けるのかという19世紀後半から20世紀初めにおける日本の人類学・民族学の論議を紹介している。日本の人類学者もアイヌの遺骨を墓所から掘り起こし測定し論文を書いていた。そして、それらの遺骨を研究室のガラス棚に陳列して1970年代を迎えたのであった。アイヌを測る、という行為が、「とある人類学者の思いつき」というようなものではないことを、グールドのこの本と前述の小熊英二の本は明らかにしている。