カスタマーレビュー
おすすめ度:
カトリックの責任 
(2008-08-06)
御用作家なのだからこういうものを書くしかなかったのだろうが、もういい加減に情緒主義をやめて悔い改めないと、そのうちカトリック教会自体にも天罰が下るかもしれない。
ものすごく空しさを感じましたねえ 
(2008-07-23)
お金のために嘘をつく人は、お金のためには何度でも嘘をつくかも知れないと疑ってみたことってありませんか。もしかしたら曽野綾子さんの知らないところで誰かがお膳立てしていて、「取材には、こう答えなさい」と、お金か何かを渡していたりしているかも知れません。よく選挙なんかで見掛ける光景ですね。真実のほどは分からないけれど、疑わしいところがあるのも事実でしょ。沖縄戦当時、曽野さんは13〜14歳ですね。その当時の沖縄の雰囲気とか実感としてお解りになりますか? 東京の大本営に見棄てられ、本土決戦準備の時間稼ぎに使われました、沖縄の戦闘は。でも、けなげに最後まで沖縄県民は戦ったんです。希望のない戦闘に、かえって本職の軍人のほうが捨鉢になり、県民を土民扱いするような数々の非行を繰返してしまいました。とくに将校クラスが悪質でしたね。
思想信条は自由ですから、どのような考えを曽野さんがお持ちになられようと問題にはしませんし、本書の見方が一面的だとも思いません。が、しかし、著者の思想信条や性格を承知している誰かの仕掛けに乗せられ、すっかり舞い上がっているのではないかという疑いが消えないのも事実なんですよね。どうも、この問題、匂うんですわ。
■注1.)気になったんで『母の遺したもの』(宮城晴美著)を読んでみました。座間味の事件で唯一の生存者であり証言者だった宮城初枝氏が「軍の命令ではなかった」との遺言を残しているとのこと。私が1968年に集団自決の話を沖縄で聞いたとき、「手榴弾を渡した」と耳にしたので、だったら命令したも、しないも関係ないじゃないか。戦争当時の常識として手榴弾の配布は自決を命じたに等しく、「命令してない」は軍官僚の言逃れでしかないと思っていました。しかし遺書によると、「自決用に銃弾を分けて欲しいと頼んで断られた」というのが真相だったとのこと。これでは座間味の「自決命令」は、梅澤氏に関する限り、間違いなく「冤罪」だったと認めるほかはありません。誤解して、ご免なさい。
■注2.)じつは、かねてより不思議だったんですわ。
大戦末期、台湾と沖縄、あと朝鮮の済州島は、米軍上陸に備えて軍の施政権下に置かれたんですが、さっぱり解らなかったのは、軍政のもと行政がどのような指揮系統に属したかという点です。軍司令官より県知事へ通牒が行き、あとは県行政の系統に従って末端の行政単位まで届けられたのか、それとも軍の命令系統に拠って現地行政当局に伝達されたのか、ちょっと調べてみたこともあるんですが、どっちだったのか解りませんでした。
宮城晴美氏によると、どうやら後者だったようです(宮城氏は「違法」だと主張していますが、たぶん御名御璽のある大本営命令か勅令でしょう。当時は合法のはずです)。梅澤氏が「自決命令」に冤罪を主張するのは当然すぎるほど当然ですが、しかし、だとすると、村民に対して生殺与奪の権を握る指揮官の立場にあったのも否定できない事実となりますね。このケースですと、梅澤少佐は自分の職務と権限に満足な自覚がなかったということになりはしませんか。
断っておきますが梅澤少佐を責めているのではありませんよ。陸士出身で軍政について一度も教育を受けたことがなく、30歳にもならない戦闘部隊指揮官の梅澤少佐に、ましてや村長、助役以下みな半狂乱状態だったようですから、そこまで求めるのは酷なのは承知のうえです。このような立場に置かれたとき、冷静かつ正常な判断ができるかなんて誰しも保障の限りではなく、とてものこと責める気にはなりません。
でも、命令すべきときに命令しなかった不作為の作為ということになりますが、自らの職権のうちには、住民に早まった自決を止める命令を出すことも選択肢としてはあったということ。やはり村長らの集団自決決行を見逃してしまったのは、指揮官として「しくじり」だったのではないか。軍刑法の言う「戦闘中の非行」にはあたりませんが、ですが、戦場指揮官として決断すべきを誤ったのは認めざるを得ないのではないかということなんです。
不出来な戦闘指揮をした部隊長の立場として、戦死させた部下の霊に謝って廻るばかりではなく、集団自決した村民を慰霊する人たちの列に、梅澤氏にも加わって欲しいところですね。
■注3.)ただ、本書が専らとりあげている渡嘉敷の赤松大尉は相当に危ないのではないでしょうか。状況証拠は真っ黒に近い灰色ですね。大尉の部下が手榴弾を配布したのは事実だし、とくに不味いのが何人かの日本国民(沖縄県民と朝鮮人軍夫)の独断処刑ですよ。
戦闘詳報がないので断定はしませんが、この種、自国民の処刑を独断で行う職務権限は大尉ていどの部隊長にはありません(軍司令官にある=実際は軍律会議に送致)ので、たとえ戦闘行為でも、戦闘詳報に記して上級指揮官に報告し軍司令官の検閲(事後追認)を受けないと越権行為として旧陸軍刑法で咎められるはずです。が、しかし、本書の記すとおりだとすると、将校連に大甘の帝国陸軍ですら、まず確実に軍法会議ものでしょうし、赤松大尉は官位褫奪処分くらいは免れられないところではないでしょうか。報告し処断を仰ぐべき32軍司令部が壊滅し、敗戦のおかげで処罰を逃れたというところですかね。なお、戦後25年めに登場した「谷本陣中日誌」は証拠能力絶無、何の弁解にもなりません。ご当人は残念でしょうが、仲間内だけで通用する気休めのたぐいと看做されるものにすぎません。
私の見るところ、渡嘉敷の赤松大尉事件と、座間味の梅澤少佐の件は、どうやら「集団自決事件」と一括できる問題ではなく、別個の事件として分けて捉えたほうが良いのではないかと思いますね。
■注4.)本書のテーマを巡る訴訟の行方に関心のある方は、秦郁彦著『現代史の虚実』、田村洋三著『沖縄の島守―内務官僚かく戦えり』ついての私の書評も併せてお目通し下さい。
読み手の力が試されます 
(2008-06-02)
「集団自決の真実」について本書が明らかにしているのは「鉄の暴風」の記述には問
題が多々あったということである。それだけと言っても過言ではない。肝心の手榴弾
が住民の手に渡った経緯については一人の証言を鵜呑みにしているだけであり、とて
も調べつくした感はない。
著者は一見論理的なようでありながら、ときには情緒的表現ではぐらかすところもあ
る。本書で何が解き明かされ、何が足りないかを考えるためには読者側の考える力が
必要だ。本書の内容の高さに星を付けるのではなく、読者として読んで考えるべき本
であるという点に星四つを付けた。
集団自決が真実であると考える人も、そうでないと思う人も読んでみるべきである。
反日ファシズムの正体 
(2007-10-24)
とにかく戦前の日本は全て悪かった、日本軍は悪だった、という観念が壊れると困る人がいる。そういう人は情報操作と言論統制で反日メディアと結託して嘘を撒き散らしている。
そういう「反日の構造」のシステムを3年前に西村幸祐氏が明らかにしてくれましたが、本書はもっと早くからその種の嘘、偽善に気づいた曽野綾子さんの渾身のノンフィクションです。
いったい反日ファシズムはどこまで日本を弱体化し、消滅させようとしているのか、その恐ろしさに改めて気づかされる名著です。
教科書検定でも反日ファシズムがメディアを先頭に猛威を振るっています。しかし、真実のみが日本を弾圧するファシズムに打ち勝つことができる武器なのだと思います。
特に後半は主体性を持って読むべき 
(2007-10-13)
コツコツと関係者にインタビューを試み、証言を集めている姿勢は好感が持てる。そのような取材を行っていたメディアが少なかったという事実がある以上、本書は一読の価値がある。
内容は赤松隊長が直接自決命令を出したかの検証が中心である。ただ、軍の手榴弾が多数民間人に渡ったこと自体がまず大きな問題であり、当時の日本軍の軍規から考えても武器及び部下の管理責任は隊長にあることから、「住民に対して後ろめたい気持ちはひとつもない、という赤松氏の発言もかなり妥当性のあるものになって来る」とまで述べている主張については議論を要する。
また、集団自決の背景を探るには、軍が駐留していない島では集団自決が発生していないという事実についても比較考察すべきだ。
赤松隊が丸腰の女性含む複数の民間人を殺害したことにも触れているが、頁数の大半が殺した側の言い分とその解説に割かれている。また、犠牲者への謝罪証言が当事者側に見られないのは残念だ。米軍に保護されて降伏を勧めるために来た人は、食べ物やチョコレートをくれる米軍は日本軍の喧伝とはずいぶん違っていたことを身をもって理解していた筈だから、それを信じてもらえずに殺されて無念であったろうことは想像に難くない。しかし、そのような死に追い込まれた被害者に対して「日本国民としてあるまじき卑怯な行為をした、というふうに、思い始めたからなのだろう」としている点には違和感がある。
「常に沖縄は正しく、本土を少しでもよく言うものはすなわち沖縄を裏切ったのだ」としている説についても、沖縄が戦場になり大きな犠牲を出した史実を直視した上で、それぞれがよく考えてみるべきだ。
戦争の悲劇の原因は現場部隊だけにあるものではないし、本書の中の証言間にも矛盾があるように全ての追求は難しい。ただし、軍の手榴弾で集団自決があった点や、軍が直接殺した人達もいたことは大きな事実であるのに、一部著作の不備を突くことと、集団自決については命令していないと言っているという一点を強調することで責任があるとはいえないという結論にまで導く論法が正しいかは意見の分かれるところだ。
著者は自分の意見をはっきり持っているが、多くの素材を提供してくれてもおり、他の資料にも触れた上でそれぞれが主体性を持って読むべき書である。