カスタマーレビュー
おすすめ度:
自分が賢いと思っている奴らの誤読と誤解に挑んだ本 
(2005-10-05)
宮台氏が取り上げる映画たちは、誤読・誤解されやすい作品が中心となっている。韓国映画のキム・ギドク監督作品などは、その最たる例だろう。宮台氏は、「みんなわかってないよ。この映画はこういう意味なんだよ」的なことはほぼ主張しない。逆に、誤読してしまう部分にこそ映画の主題があることを異様に細かく説いていく。自分ではわかったつもり/頭がいいつもりになっている/なりがちな、そんな自分こそが、映画によって問われるのだと、宮台氏は言っているように思える。
駄目な著者 
(2005-03-28)
残念ながら映画を真摯に分析する態度がない。それはそのまま社会を真摯に分析する態度のなさを反映していて、本当にどうしようもなく駄目な著者。
映画をダシに思想を語ったわけだが・・・ 
(2005-02-07)
宮台氏が、ここ数十年である種制度化したテクスト論的な批評の作法を知らないはずはない。大学時代には映画制作サークルに所属していたらしい宮台氏が、その当時一世を風靡していたはずの蓮實重彦らの映画批評を意識していないはずがない。また、その当時には小林秀雄を叩くことも大流行だったはずだ。
この本で宮台氏は、明らかに意図的に、そうした歴史を足蹴にしている。小林秀雄の「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」を地で行くように、この本において映画は、宮台氏が自分の思想を語るためのダシ、触媒、または催淫剤としてしか扱われていない。いい度胸じゃないか。
で、それは成功したのか?
率直に言って、退屈だった。だって同じ話の繰り返しなんだもん。基本的な道具立ては、未規定な全体としての「世界」と、コミュニケーション可能な領域としての「社会」。「社会」の無根拠性に気づき、より深く絶望し断念することにより、福音が到来する(かもしれない)、というのが宮台氏のストーリーで、すべての映画はこの宮台ストーリーとの関連性においてのみ取り上げられ、評価される。
宮台氏の描き出す世界はアイロニーに満ちている。キレイはキタナイ、キタナイはキレイ、希望は絶望、絶望は希望。良かれと思ってしたことが人を破滅させ、投げやりな身振りにこそ真摯な愛がある、とか何とか。そして言葉嬲り大好きな宮台氏らしく、語り口はまさしくサド的で、愛の対象(ここでは映画)を抹消するまでに思想的ファンタジーを増殖させる。
サディストは自らを昂ぶらせるために、ファンタジーを更新し続けなくてはならない。しかしこの本では、ファンタジーは単調に増殖するばかりで、更新されることがない。「サイファ」の脚注という限界に留まっている。脚注を本にして商売するとは、実にいい度胸。読む方も読む方だけど。あ、ワタシのことか。
社会と世界 
(2005-01-10)
社会のシステムに取り込まれているだけじゃないか。
こんな社会で生きるのは無意味ではないか。
そんな問いは、ハイデガー後期の絶望と重なるように、あるがままの世界への「驚き」に出会うことから生まれる。そして「驚き」の後、虚構の社会でいかに生きるべきか。
「驚き」の契機とそれらの問いへの応答が映画にはあふれていることを宮台氏は気づかせてくれる。
「宮台的映画評論」として読むべき 
(2004-10-15)
映画評論には、大雑把に2つの方法があると思います。1つには、映像をどう切り取るかに着眼した方法。もう1つには描かれたコンテンツについて語る方法。そしてこの評論は後者に当たるものです。
では、その内容を語る方法ですが、その方策は多様にあるように思います。マルクス主義全盛期には、映画の中に、「この部分はマルクスの言う疎外が描かれている」といった評論が可能だったと聞きます。
それが評論として妥当かどうかは別として、少なくとも映画は、そういった見方を許している媒体だということができます。
つまり、この評論は、映画を社会学的方法、意味解釈的に理解するという方策をとった評論とみなすべきだと思います。
従って、普通の映画評論として読むと面食らうこともありましょう。あくまで、「宮台的映画評論」として読むべきであり、そういった前提を共有しないのであれば、読む必要はないように思います。また、そういった前提を共有していない批判も、無意味だと思います。
読みたいと思う人は、この評論の独特の読みにくさを作り出している、社会学や哲学の学術用語にまずは慣れるのがよろしいかと思いますので、『サイファ 覚醒せよ』あたりを読んでから読むことをお勧めします。