トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ 389)
宇野 重規 講談社
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価格:¥ 1,575
発売日:2007-06-08 /通常24時間以内に発送
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複雑な諸問題をデモクラシーの中で解決するために 
(2008-08-10)
1967年生まれの政治思想史研究者が、2007年に刊行した、ラディカルな民主主義者としてのトクヴィル像を提示しようとする本。アレクシ・ド・トクヴィル(1805〜1859)は、革命と反動の間を揺れるフランスで、王党派の名門貴族の三男として育ったが、啓蒙思想にふれることにより、信仰と貴族の将来への懐疑を抱くようになる。1831年26歳で9ヶ月間、独立後半世紀の米国を視察した彼は、あくまでもフランスの現状を念頭に置きつつ、一族にも配慮しながら、3年後に『アメリカのデモクラシー』を出版し、米国こそ諸条件の平等がその極限に達した、デモクラシーの最も発展した国であると主張した。デモクラシーの社会では、人々は相互の平等性を前提に、自分の個性が他者に尊重されることを望み、あらゆる不平等はその理由づけを要求される。彼らは判断基準として、伝統ではなく自己の理性を重視するが、同時にそれゆえに理性の不確実性が露呈されることにもなり、デモクラシーは多数者の圧政や後見的権力の拡大をももたらすことになる。トクヴィルは、こうした正負の側面を見据えながら、米国的なものとデモクラシー的なものとを区別しつつ、近代欧米共通の未来(エスニシティー分析の弱さはトクヴィルの欠点の一つである)である社会類型としてのデモクラシーを、よりよく運営するための諸条件を模索する。それは一方では、宗教や結社、専門家のような異質な原理を、デモクラシーに組み込んでいくことであり、他方では、一般市民があくまで自己利益を動機としながらも、日々の共同体的実践を通じて、独特な自己矯正力を身につけ、公共の利益を実現するという、デモクラシーそれ自体の持つ潜勢力を全面的に開花させることであった。これが彼の考える、水平化し分権化しつつある社会を、民主的に再組織化する諸方策であったと著者は言う。
『アメリカのデモクラシー』と平等化の理論 
(2008-01-07)
トクヴィルの主著『アメリカのデモクラシー』を、特に平等化の側面からわかりやすく解説した本。
サントリー学芸賞受賞も納得の作である。
序章
トクヴィルは、アメリカでは左右を問わずともかくよく引用される人気の思想家である。
しかし、トクヴィルはアメリカをフランスと比較するために持ち出しているという側面があり(トクヴィルはフランス人)、そのためアメリカがよく描かれている場合にはフランス人読者への戦略的意図がある。それを忘れてアメリカ賛美に酔っていてはいけない。
第1章
トクヴィルの生い立ちと、アメリカの旅。そしてそこで受けた衝撃。
アメリカでは、「徳」ではなく「正しく理解された自己利益」によって共和制が実現している。
こうした事情が、『アメリカのデモクラシー』の背景にある。
第2章
「諸条件の平等」は歴史の趨勢である。
不平等な社会にいると、自身の不平等にはなかなか気づかず、むしろ社会が平等になることによって、不平等が顕在化する。そして平等社会での小さな不平等に、人はすごく腹を立てるようになる。
例えばフランス革命は、平等が見えたゆえに、現実の圧制(不平等)に気づき不満を持ったのである。
デモクラシーな社会は、個人を属性では規定できない。
しかし、人はすべてに懐疑的では生きていけない(トクヴィル自身の経験からもそうである)。
そのため、人は「疑うことなく正しいと信じてよいもの」を求めるが、それはときに「多数者の意見という最高権威」へと傾き、「多数の圧制」を招きかねない。
第3章
近年、『アメリカのデモクラシー』はフランスでも注目を集め始めているが、それは米仏の比較への関心の表れでもある。
「平等な自由」を受け入れることで、人は利己的な考えから他者と協調し、秩序が構築される。
アメリカの秩序は、まさにこうした水平的なものであり、垂直的なものではなかった。
アメリカでは、自由と宗教は共存している。
これはヨーロッパでは厳格な政教分離の考えから、自由と宗教が対立しあっているのとは対照的である。
第4章
結社は個と個を結びつける。
それは個が独立したデモクラシーな社会においては異質な存在であり、しかしそれはデモクラシーを相対化するよい契機でもある。
宗教は、デモクラシー下の徹底された懐疑主義的状況を脱するための糸口にもなる。
また、宗教を社会で共有することは、社会にとって重要である。
宗教によって、「多数の圧制」は回避できるかもしれない。
自治と陪審の考え方も、個人を政治に参加させるもので、デモクラシーにおいて重要である。
終章
デモクラシーの危機ははデモクラシーの潜在能力によって乗り越えられるかもしれない。
その糸口として、そしてデモクラシーの未来を切り開くために『アメリカのデモクラシー』は今日でも重要である
トクヴィルは、平等と自由に関する共通認識を深める機会を提供する 
(2007-10-06)
「はじめに」で、著者は本書で論じることの一つが、“近代社会の本質を読み解くグランド・セオリーが「デモクラシー」という概念であり、その中心は「諸条件の平等」であること”と述べる。「平等」と言えば「自由」が呼応するものだが、「人民主権」と「平等な自由」を論じる節で、“しかし、政治的な平等という場合において重要なのは、人々が平等に自由になるか、あるいは平等に隷属するか、という二つの選択肢があるということである。イギリス系のアメリカ人は幸福にも、前者を選ぶことができた。(中略)より具体的に言うならば、イギリス系のアメリカ人は、各個人が等しく権利の担い手であることを受け入れた。そして、各人が自分の利害の唯一最善の判定者であることを承認した上で、他の個人と共有する利害については、相互に義務を負うことを承諾した。”(p.104)と述べる。
この表現は難しいが、言わんとすることは次のようになると考える。
人間が平等に自由であればどうなるであろうか?典型的な例として、親と子供が平等で自由となり、先生と生徒が平等で自由になる場合を考えてみる。平等に自由であれば、親と子供の間に存在する権利と義務が意味を持たなくなる。同様に先生と生徒に存在する権利と義務が意味を持たなくなる。
なぜ、そうなるのか?本来、親には子供を躾る権利と育てる義務があり、子供には育ててもらう権利と親を敬う義務がある。先生には生徒を躾る権利と生徒の能力を見いだす義務があり、生徒には自分の能力を伸ばす権利と先生を敬う義務がある。しかし、平等に自由であることは、こうした権利と義務の存在を無意味にする可能性が高い。
その結果、何が起きるか?平等に自由であることは秩序を破壊する。親と子供の間で義務と権利が認められなくなり、先生と生徒の間で義務と権利が認められなくなるということは、家庭や学校が無法地帯となることを意味する。つまり、親と子供の関係はバラバラ。先生と生徒の関係もバラバラ。そこには「礼儀ある規律」が生まれない。
トクヴィルの著作は、道徳的な意味の「秩序と規律」を保つ「平等と自由」を深く理解する機会を提供するに違いない。