触発する言葉―言語・権力・行為体
Judith Butler竹村 和子 岩波書店
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価格:¥ 3,675
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カスタマーレビュー
おすすめ度:
rhetorical speech? 
(2004-10-29)
憎悪発話をいかにして乗り越えることができるのか。ジェンダーを構築主義的に論じてきた著者の最新訳。まずは、訳者を心から絶賛。多難辛苦を味わったことであろうが、名訳の円卓を囲むこと請け合い。そして、バトラーの論。speech actの理論に関しては、すでにオースティンに従って「発語内行為」(慣習によって可否の決まるspeech/act一体型)と「発語媒介行為」(文脈によって成否の決まるspeech/act二段式)という分類がある。バトラーは憎悪発話を後者の部類に含めて論じようとする。というのも、前者に含めると、憎悪発話を法的に認定する国家のレベルに最終審級をおいてしまうことになり、憎悪発話を逆説的に生産する(国家が法的に定義した時点で憎悪発話という存在が生まれるということか?)国家の暴力を放置することになる。その帰結として、憎悪発話と法の取締りのいたちごっこの無限連鎖を批判することはできない。しかし、憎悪発話を「発語媒介行為」として考えると、speechとactは必ずしも効果の上で一致するわけではないので、必然的に両者の間にはズレが生じ、憎悪発話の行為遂行的位置もずれてしまう。なるほど。と、若干だましてやる感が漂う筆致に修辞学の教授の底力を見た、と納得してみる。個人的見解として、法を絶えず刷新していく方法(つまり「発語内行為」)の可能性もデリダとか、デリダとか、デリダ(『法と正義』)のように忘れてはならないような気も。でも、政治学の徒でも哲学の端くれでもない者にとって、レトリックが一番の収穫なのであった。
まさにExcitable! 
(2004-06-04)
オースティンの発話内行為/発話媒介行為概念を軸に,言葉が・言葉を発することが,人に・世界に,どう力を及ぼし・及ぼされるのかを,最近の具体的な事例(裁判や法案や)を用いて,説いたもの。
特に中傷・憎悪発話をとりあげ,そうした発話に対しては,規制しても・反論しても,何も反抗にならないが,いやむしろ,そうした発話で何をしても常に新しい意味を・力を獲得して,新しい世界を創り続けることになる,という。
などとまとめてしまうと身も蓋も無いが,実際の本書では,そうした主張が,きままにフーコー,フロイト,ブルデューらの言を引きながら,(訳も含めて)わかりやすく,かつ説得的に論じられている。自由だ,市民だ,女だ,と教条的に唱える「批判」などとはまったく違う,真の批判的論考。
あらゆる不当な権力に向かい合うための,まさにExcitable Speechでした。
「いまだになされていない」普遍への戦い 
(2004-05-09)
フェミニズムは、女と男を党派的に対立させる矮小なものではなく、「まだ実現されていない普遍的価値」(p140)を目指す運動である。著者はそれを、憎悪発言やポルノ規制をめぐる「行為遂行的な矛盾」の犀利な分析によって提示する。憎悪発言やポルノはたんなる発言や表現ではなく、それを語ることによって、語られた他者を傷つける「行為」である。YesとNoの発言は、意思をもつ人間=人格の核心であるが、ポルノは、女性のさまざまな抵抗の映像の中に「いやよ、いやよもいいのうち」を読み取れるように作ってある(134)。だが、性に関する発話はそれ自身が性的行為の一部とみなされるという、発話=行為の同一性はきわめて微妙な両義性をもつ。黒人女性アニタ・ヒルが訴えた裁判のように、セクシャルハラスメントを告発する発言自体が、テレビ中継による壮大な「見世物」になり、ポルノ映画に似たものにされてしまう。この逆説と戦うには、国家によるポルノの法的規制に訴えたのではだめで、性的発言それ自身がもつ「行為遂行的矛盾」を被害者が逆手にとって再文脈化する戦略を取るべきだ、というのが著者の主張である。オースティンの言語哲学を核に、フーコーやアルチュセールの洞察がうまく生かされている。ヘーゲルで博士論文を書いた著者はまだ40代の若さだが(1956年生まれ)、西洋近代哲学の最良の部分を見事に生かした冷静で冴えた議論が素晴らしい。